7月の蒸し暑い木曜日、チャンキー・クマール(Chankey Kumar)はいつものように朝早く目覚めました。寝室が2つだけの家で、彼は妻と幼い息子のほか、彼の両親、叔母、叔父、2人の若いいとこと暮らしています。彼は青い襟付きシャツときちんとしたズボンに着替えました。インド・ニューデリーから北へ数時間の距離にあるメーラト郊外の労働者層の地区に住む彼にとっては珍しい、フォーマルな服装です。
朝食後、彼はメッセンジャーバッグを肩に掛け、食器棚の上のバイク用ヘルメットをつかみ、クハーに向けて出発します。クハーは、アローギャ・パリヴァールの健康教育担当者として彼が毎月訪れている69の村のうちの1つです。ノバルティスが2007年に開始したこのプログラムは、商業的に持続可能な方法でインドの14,000の農村に住む約3,200万人のヘルスリテラシー(健康に関する情報を入手し活用する能力)を改善し、医師にかかりやすく、また医薬品をより利用しやすくすることを目的としています。
アローギャ・パリヴァールは、ヒンディー語でヘルシーファミリー(健康な家族)を意味し、米国のハーバード・ビジネス・スクール教授であるマイケル・ポーター(Michael Porter)とマーク・クレイマー(Mark Kramer)が推進するアプローチである、「共通価値」のビジネスモデルの例です。「長い間、企業はただ世界をそのまま受け入れていました」と、クレイマーは言います。例えば、ある製薬企業は、クマールが教育を行う村で医薬品を販売することに重きを置いていません。そこには、医師の診察を受けられる人や、医薬品を買うだけの十分なお金を持っている人がほとんどいないからです。その一方でクレイマーは、共通価値とは「社会問題が実はビジネスの機会であり、ビジネスのコストではないという考え」だと言います。
アローギャ・パリヴァールへのニーズと、このプログラムを進める機会は膨大です。貧しい農村地域に住むインド人の70%が、国の医療費に占める割合はわずか22%です。ほとんどの人の収入は、1日5米ドルにも届きません。アローギャ・パリヴァールの医療テントは無料で治療に関する情報のほか、医師の診察も提供しています。医師は、勤務時間のうち数時間を村でボランティアとして勤務し、代わりに、患者となり得る様々な集団と出会うことができます。さらに、疾患予防に関するヒントも学べる健康教育のセッションが、クマールのような地元で採用され、村の方言や習慣を理解しているトレーナーによって企画・運営されます。
一方で、プログラムとは別のノバルティスの部門が、栄養不良や下痢などのよく見られる症状に対する安価な医薬品を医師に普及させていきます。プログラム開始から3年後の2010年までに、対象地域での医薬品の需要が増えたことで、アローギャ・パリヴァールは採算が取れていると判断しました。テントを設営した地域の村人が医師の診察を受けた数は3倍になりました。
しかし、現場ではアローギャ・パリヴァールはまだ多くの課題に直面しています。その活動の大部分は、クマールや、プログラムで活動する他の健康教育担当者約250人の日々の負担となっています。多くの村では、公認の医師よりも伝統的な民間療法を施す人を信頼したり、医薬品を共有したり、必要な栄養摂取を怠ったりする状況がみられます。屋外での排泄など、個人的な信仰や習慣が、文化や環境により深く根付いています。当初、衛生や具合が悪くなった場合の対処法に関するクマールの提案は、疑いと時には敵意を持って迎えられました。「たくさんの人を集められたことなどありません」と、このプログラムで4年間活動してきた27歳のクマールは言います。「家に帰って泣きました。みんな出ていってしまうんです。人々は、『我々のほうが知っている。私達は忙しいんだ。邪魔をするな』と言います」
クマールは粘り強く続け、やがて村のリーダー達の信頼を得て、研修のセミナーを受け、そこで自分の考えを表明することを学びました。真剣な茶色の目をした彼は、穏やかな話し方で、さらに自信を持って振る舞えるようになりました。その木曜日、バイクで中央市場を通り抜け、彼は通り沿いの診療所のドアをノックしました。研修医であるスディール・グプタ(Sudhir Gupta)が出てきて、車で彼の後を追い、サトウキビ畑を抜けてでこぼこの舗装道路を進み、クハーまで向かいました。中央寺院の中庭で、クマールは村人を手伝い、折りたたみテーブルと椅子で、医師のために仮設診察室の設営を行いました。その後、小走りで中庭から出て、参加者を集めるため、近隣の家へ行きました。
毎月の説明会で、彼は、病気を防ぐために身の回りのものを清潔にするよう村人に訴えてきました。このお寺を取り囲む側溝に落ちている炭酸飲料のボトルを指摘しました。一部の家の前では側溝は清潔でしたが、他のところでは、ごみや牛糞がたまり、排水路が塞がり、その結果あふれてしまっているところも多くありました。よどんだ水には、蚊やハエが集まり、それが病気を運びます。蚊によって拡がるチクングニア熱は、その前年クハーを苦しめました。
その朝、グプタ医師は風邪をひいた男の子、父親が認知障害を心配している別の男の子、腕に痛みのある年配の女性、不眠症の女性、背中を怪我した若い男性を診察しました。脚が衰えた男性が、中庭をゆっくり歩き、胃痛を診てもらうためにやってきました。患者のほとんどは、医師の診察を受けるのは初めてでした。
ビジネス上の観点からは、アローギャ・パリヴァールは明らかに成功と言えます。ノバルティスは、2022年までに健康に関する教育の会合や医療キャンプを通して、インドの村に住む4,400万人にまでプログラムを拡大する計画です。そして、同様の取り組みがケニアとベトナムでも進行しています。
プログラムの社会的影響を評価することは難しいことが分かっていますが、恐らくそれ自体が学ぶ機会となります。「業界での社会プログラムでは、ほとんどの場合、適切で確かな評価がなされないことが問題となります」とノバルティスの企業責任戦略イノベーション部長であるマイケル・フュルスト(Michael Fuerst)は言います。彼はアローギャ・パリヴァールの開始時からプログラムに関わっています。「善行には信念がある」— 善意の投資からは自然と良い結果が得られます。「まだ仮定であり、科学的知見に基づくものではありません」とフュルストは続けます。「もっとよく知る必要があると思います」
この問題を解決するため、ケニアで展開しているノバルティス・アクセスという別のプログラムに関する中立的な評価を行い、アローギャ・パリヴァールや他の医療アクセスプログラムに適用できる、厳密な評価方法を提言するため、ノバルティスは米国ボストン大学公衆衛生学部の教授であるリチャード・レイング(Richard Laing)の協力を得ました。彼と彼の研究員は、共通価値を試行している他の企業はこの結果を参照することができるよう、ケニアの結果をオンラインで公開する予定です。「他の企業にも参加してもらい、モニタリングや評価もより体系的に行いたいと考えています」とフュルストは言います。彼は研究を「より良く、正しい方法で行うための取り組み」と考えています。
一方で、クマールや他のメンバーは、多くの場合は自分達の独自の戦略を考案して地元の人々を引きつけ、自分の地区の医療アクセスを徐々に改善する取り組みを続けていくことになるでしょう。例えば、クハーを訪れた後、クマールは近くの村のモルヘラまで車を走らせ、自分のセッションで通常予想されるおよそ40人よりも多くの聴衆が集まることを期待して、そこで路上演奏を企画しました。
正午前、彼とメンバーは、村の評議会の建物と隣接した小学校の庭の土を掃き、毛布を広げました。「いま私たちが座っている場所は、あんな風でした」。学校横にある、草木が生い茂り、ゴミが積み上げられた野原を指差し、モルヘラは言いました。彼は、この光景を適切な公衆衛生に関する彼の説明が効果を示しているサインと考えています。ストリートミュージシャンが、ドラムを作るため、ゴムを鍋の口に広げていると、聴衆が集まり始め、やがてその数は100人を超えました。通りからは、子どもたちの列が庭を囲む壁越しにのぞいていました。
演奏後、クマールは、彼の説明会を妨害する人は相変わらずいるものの、今回の企画を期待通りに実施できたと考え、「聴衆を引きつけることができるので、演奏の後に話すことは大切なのです」と話しました。人々の行動を変えるために、最初でかつ最も重要な一歩は、まずは彼らにその場に来てもらうことだ、とクマールは理解しているのです。