都会の限界集落にある、あたたかい「保健室」

都会の限界集落にある、あたたかい「保健室」

 都会の限界集落にある、あたたかい「保健室」


新宿区にある巨大な団地「都営戸山ハイツ」の一階に、「暮らしの保健室」はある。取材にうかがった日、"保健室"は、団地に住む高齢者が健康相談に来ていたり、近所の女性たちが料理を作っていたり、人であふれていた。ちなみに毎週木曜日には、管理栄養士で、がん患者さん向けの料理本も出版している川口美喜子さんが料理を教えに来てくれるという。

そんな「暮らしの保健室」を立ち上げたのは、訪問看護師の秋山正子さん。イギリスの「マギーズ・キャンサー・ケアリング・センター」(以下、マギーズセンター)の話を聞いて、「こんな場所が日本にもほしい!」と感銘を受けたのがきっかけだ。
「こんな場所」とはどんな場所なのかというと、「家庭のような雰囲気のなか、思い思いのスタイルで相談が受けられる場所。」最初にマギーズセンターの話を聞いた4カ月半後、さっそくイギリスまで見学に行くと、がんとともに生きる人を支えるための相談支援の新しい形が、そこにはあった。

「がんかもしれないという不安を抱えている人から、大事な人をがんで亡くして心の傷が癒えない遺族まで、がんの"旅路"のどの時点でも、予約なしでふらっと立ち寄れ、話を聞いてくれて、自分の力や自分らしさを取り戻すのを手伝ってくれる。マギーズセンターはそんな場所でした。」

実際にマギーズセンターを見て「こんな場所を日本にも!」という想いを強くした秋山さんは、マギーズセンターの関係者を日本に呼んで講演会を開いたり、夢の実現に向けて取り組みを進めた。そして、2011年7月、縁あって戸山ハイツに、マギーズセンターをモデルに、相談者自身の力を引き出す手伝いをする暮らしの保健室をオープンした。

都会の限界集落にある、あたたかい「保健室」
親しみやすい「暮らしの保健室」の入り口

ただ、戸山ハイツは、「都会の限界集落」と呼ばれることもあるほど、高齢化が進んだ団地だ。高齢化率は5割を超え、独居率も4割と高い。そのため、がんに限らず、医療も介護も含めて「暮らしに関するよろず相談を行う場」として始まった。

医療や介護の専門家が交代で待機して相談にのるほか、健康に関する勉強会を開いたり、住民同士がお茶を飲みながら話していたり、ボランティアスタッフが話し相手になったり、サロンのような役割も担っている。

家なら、病人でも「母」「妻」「娘」でいられる

家なら、病人でも「母」「妻」「娘」でいられる


ところで、秋山さんはもともとは、産婦人科専門の看護師だった。なぜ、「がん」や「家での暮らしを支えること」に携わるようになったのかというと、きっかけは、2つ年上のお姉さんを41歳という若さでがんで亡くしたことだった。

お姉さんが40歳のときに転移性の肝臓がんが見つかり、家族は「余命1カ月」と告げられた。がんが広がっているために手術で取り切るのは難しく、肝臓自体の機能が落ちているため薬も使えない。当時、京都に住んでいた秋山さんは、お姉さん一家が住む神奈川に行き、病院でそう説明を受けた。

「病院にいてもベッドの上に寝ているだけならば、住み慣れたところで最後の時間を過ごした方がいい」。そう考えた秋山さんは、戸惑う本人に「ゆっくり生活を整えるのが大事だから」と説明し、思い切って家に連れて帰ったという。

家なら、病人でも「母」「妻」「娘」でいられる

今から25年ほど前のことで、在宅医療も訪問看護もほとんどない時代だ。それでも、「家」を選んだのは、医療者だからこそ当時の抗がん剤治療の辛さを知っていたことと、「病院と家では、時間の濃さがまったく違う」と考えたからだった。

「病院では面会時間が限られますし、周りに気を遣いながら話さなければいけません。でも家であれば、寝ている病人でも母親や妻としての役割を果たせるのです。小学生と中学生だった子どもたちに『行ってらっしゃい』『お帰りなさい』と声をかけることも、学校での出来事を聞くこともできます。それまでは家事なんてしたことのなかった義兄には、姉はベッドの上から『洗濯物はパンパンと広げてから干してね』などと家事のやり方を教えていました」

また、秋田から手伝いに来てくれた母親とお姉さんが濃い時間を持てたのも、やはり家にいたからこそ。がんという病名は伝えていなかったにも関わらず、「ただ事ではない」と察して神奈川まで出てきたお母さんは、「何か言い残しておくことはない?」「頭がしっかりしているうちに言っておいたほうがいいよ」と、お姉さんに話していたという。

「姉は、『死んでいくのは悔しいな。でも、その都度思ったことはたくさん言ってきたから言い残すことはない』と母に語っていました。姉にもがんという病名は伝えていませんでしたが、自分の病気の重さはよくわかっていたのだと思います。そんな時間を持てたのも、やっぱり家にいたからでしょう」

がんが見つかった時には「余命1カ月」と告げられたお姉さんは、それから4カ月ほど家族との時間を過ごし、最後の2週間だけ病院のお世話になって人生を閉じた。

「どう生ききりたいか」を支えるケア

「どう生ききりたいか」を支えるケア


「どう生ききりたいか」を支えるケア

お姉さんを家で看病した経験から「家の力」を実感した秋山さんは、淀川キリスト教病院で訪問看護師としての研修を受け、1年後、旦那さんの転勤に伴って東京に引っ越してきたのを機に、医療法人春峰会白十字訪問看護ステーションの一員となった。これは、秋山さんのお姉さんがお世話になった在宅医療チームが立ち上げた訪問看護ステーションだ。
現在は、株式会社ケアーズ白十字訪問看護ステーションと名前が変わり、秋山さんが代表取締役を務めている。
「会社の社長になるつもりなんて、まったくなかったんですけれど(笑)」。そう言って笑う秋山さんが、なぜ、会社を立ち上げたのかと言うと、医療法人の理事長、院長が相次いで病に倒れ、法人をたたまざるを得なかったから。その際、「メンバーがバラバラになって、それぞれ就職先を見つける」という選択肢もあった。そのほうが普通の選択肢だったかもしれない。それを選ばなかったのは、「自分たちがやってきた看護の理念を守りたかったから」だ。

「私たちは、在宅医療のパイオニアである佐藤智先生が始められた在宅ケアの精神を受け継いでいました。『病気は家庭で治すもの』『自分の健康は自分で守るもの』というのが先生が掲げていた二大モットー。在宅ケアでは『患者さんとご家族がどのように病気と向き合い、最期をどのように生ききるか』を常に真ん中に据えて、がん患者さんの在宅ホスピスまで行っていたのです。メンバーがバラバラになることで、新しく就職した施設の方針や経営に左右されて、自分たちが守ってきた在宅ケアのあり方を失いたくなかったのです」

次は「マギーズ・トーキョー・プロジェクト」

次は「マギーズ・トーキョー・プロジェクト」


1992年から訪問看護に携わり、2001年にケアーズを設立し、自分たちが理想とする在宅ケアを続けてきた秋山さんだが、がん治療の現場が少しずつ変わってくるにつれ、ある疑問を抱くようになってきた。

外来での治療期間が長くなり、生活をしながらがん治療を受ける人が増えた。ところが、病院から紹介されて訪問看護を受けるのは、もう治療のすべがなくなり、残された時間が短い患者さんばかり。そして多くの患者さん、ご家族は、「もっと早くに頼めば良かった」と漏らす――。

「『治療できないから在宅に』と、在宅が"あきらめる場所"のように思われている気がしました。緩和ケアという言葉も、最後の最後になって初めて出てくるのです。でも、病院で治療を受けているときから、家では苦労して暮らしている患者さんたちがたくさんいて、私たちが自宅に伺って、状態を見たり、マッサージをしたり、お風呂に入るのを手伝ったり、薬を管理したり、悩みを聞いたりすると、『もっと早くに出会いたかった』とみなさんおっしゃる。どうしてもう少し前から生活の質を上げるためのケアを受けられないのだろうかと、とてももどかしく思っていました」

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気軽に立ち寄れる暮らしの保健室

そんな思いを抱えているときに出会ったのが、冒頭で紹介した、がん患者さんが自分の力を取り戻せる場「マギーズセンター」だったのだ。そしてこれが、病気になったときから、もっと言えば、病気になる前から地域の人たちの暮らしを支える「暮らしの保健室」のオープンにつながった。

今、秋山さんはもう一つのプロジェクトを進めている。「マギーズ・トーキョー・プロジェクト(http://maggiestokyo.org/http://www.facebook.com/maggiestokyo)(外部リンク)」だ。暮らしの保健室は、新宿区戸山という土地柄もあり、健康・生活に関するよろず相談所として続けていく。一方、マギーズ・トーキョー・プロジェクトは、イギリスのマギーズセンターそのものを東京に招致しようというもので、24歳でがんを経験したサバイバー・鈴木美穂さん(若年性がん患者団体「STAND UP!」副代表)たちと一緒に進めている。すでに、江東区豊洲の土地を借りられることが決まっており、建設に向け準備中だ。

「土地が決まり、いよいよ本格始動してきたところです。1年半後くらいにはオープンしていたいですね。ぜひ、多くの方にご支援いただければと思っています」

2008年にマギーズセンターの存在を知り、「日本にもこんな場所を!」と夢を抱き、実現に向けて邁進してきた秋山さん。その夢はいつの間にか多くの人の夢となり、もうすぐ花開こうとしている。

(2014年8月)