美味しくない理由

美味しくない理由

 美味しくない理由


抗がん剤治療をはじめとして、がん治療においては副作用が大きな問題になる。嘔気・嘔吐、脱毛、口内炎などはよく知られているが、医療のなかでも見過ごされがちで、かつ一般的にもあまり知られていないのが、食欲不振、味覚障害といった食にまつわる副作用だ。しかし、食は生活の基本であり、人間の体をつくるもの。食にまつわる副作用が、実は治療の妨げになったり、患者さんのQOL(quality of life)を著しく低下させることもある。

現在は淑徳大学看護栄養学部で教鞭を取る管理栄養士の桑原節子さんが、がん患者さんとかかわるようになったのは、1993年、国立がん研究センター中央病院に栄養管理室長として転職したのがきっかけだった。
「それまではいわゆる総合病院に勤めていたのですが、管理栄養士が治療に介入し、栄養指導を行うのは、糖尿病や腎疾患の患者さんがほとんどで、がんの患者さんに携わる機会はありませんでした。」
なぜなら、診療報酬上、「栄養食事指導料」という指導料が算定できる疾患の患者さんが優先されるからだ。もちろん、そうした疾患は栄養管理がより重要だからだが、そのために、そこに当てはまらないがんなどの患者さんにはかかわる機会がほとんどなかったという。

ただ、がんセンターは、当然、がん患者さんばかり。そして入職してすぐに桑原さんが対面したのが、「食事がまずい」という患者さんからの不満だった。
「美味しくないものは出していないはずなのに、患者さんは『なんでこんなまずいものを出すのか』と言うのです。よくよく調べてみると、薬の副作用による食欲不振、味覚の変化、体調の悪さから美味しいと感じられなくなっていたり、生活リズムの違う人と同室で過ごす環境が原因だったりすることがわかってきました。表面上は『食事がまずい』という問題だったのですが、実は、副作用や療養環境が影響していたんです。」

栄養状態で治療が変わる

栄養状態で治療が変わる


副作用や療養環境に問題があるならば、栄養管理室だけの問題ではなく、病院全体で取り組むべき問題だ――。そう考えたものの、入職した当初のがんセンターは、管理栄養士の桑原さんにとって、"アウェー"だった。
「たとえば糖代謝異常の治療であれば、管理栄養士がかかわるのが当たり前で、私たちが食事状況の把握・評価をした後に医師が診察するという流れになっていました。ところが、がんの場合、管理栄養士が介入して栄養管理をするという習慣がなかったのです」
食にまつわる副作用に関する説明にしても、対応するのは看護師で、これまでの経験のなかで蓄積してきた情報を伝えていた。もちろん貴重な情報ではあるものの、決して、食品や栄養素、食べ方にまで精通しているわけではない。

もどかしく感じていた矢先に、志のある2人の医師が「NST(栄養サポートチーム)を立ち上げよう」と、桑原さんに声をかけてくれた。そして、医師2人、看護師1人と桑原さんという小さなチームが立ち上がった。

栄養状態で治療が変わる

「栄養状態が悪い患者さんに困っていた医師もいました。それで、NSTとして私たちが介入したところ、食欲がなくて食事を取れなかった人が口から食べられるようになり、顔色が良くなって、目の焦点が合うようになり、元気になったんです。患者さんが元気になると、家族も安心して元気になります。そういうケースが2、3例出てくると、栄養管理に対する病院内の評価も変わっていきました」
また、栄養状態が悪くて腸管免疫が下がれば、たとえば、3クール予定していた抗がん剤治療を2クールで中断せざるを得ないということも起こり得る。「栄養状態がよければ、予定通りの治療を行えるわけです。栄養を通じて患者さんの状態を良く保ち、最善の治療を受けられるように支援することが、私たちの重要な役割なんです」と、桑原さんは説明する。

"美味しい"を個々に調整

"美味しい"を個々に調整


味覚は一人ひとり異なる。さらに、抗がん剤の副作用で生じる味覚障害の内容、度合いも「百人いれば百通りある」と、桑原さんは言う。メタリックな味がしてほとんどの味がわからなくなる人もいれば、甘みを感じない人、甘みと塩味のバランスが微妙にずれている人など、さまざまだ。
そのため、「食事が美味しくない」「味覚が変」などと訴えた入院患者さんの食事は、その人にとって「美味しい」と感じられる味にするために、こまめに病棟を訪問し、患者さんに聞きながら個々に調整していく。

美味しいを個々に調整

「特定の味が強く感じられる場合、『2分の1にカットしましょう』というマニュアルはあります。それでもまだ食べられない場合、その先は、『薄いのか、強いのか、なぜ食べづらいのか』など聞き続けて、調整を積み重ねるしかないんです。統計を取れば『この薬を使えば、こういう味覚障害が生じる』というものがあるだろうと思っていましたが、調べていくと、個々に対応することが最も適切であることがわかりました」

最近では「うま味が感じられなくなる」人が多いという傾向はわかってきた。
「美味しいおすましでも、出汁の味を一切感じられず、塩と醤油の味だけでは美味しくありませんよね。そういう感覚で食事をされている人が、がん患者さんのなかには結構いらっしゃるのです。ですから、うま味をどう強化したら、美味しく感じられるようになるのか、研究しているところです。それがわかると、患者さんは以前よりも楽に美味しく食べられるようになると思います」

とはいえ、必ずしも「口から食べ続けるべき」というわけではない。水を飲んでも嘔吐するほど気持ちが悪い時期に無理して口から食べる必要はなく、静脈栄養も必要な治療だ。
「少し気分が良くなったときに負担にならないものを食べておくことは有益ですし、2週間ほど静脈栄養だけという状態だと腸管免疫は下がりますが、1食、あるいは1日食事を摂れなかっただけで一気に下がることはありません。『食べねばならない』とあまりに思いつめるとストレスになり、かえって免疫を下げるので、自然体で考えてほしいですね」

10年の間の変化

10年の間の変化


治療中は食べられるものを無理なく食べ、治療が終わって食欲が回復してきたら、バランスよく食事を摂り、次の治療に備える――。治療前、治療中、治療後という時期や治療内容によって、問題や必要な栄養管理は変わる。
たとえば、治療後、食欲不振は比較的早く回復するものの、味覚障害や手のしびれなどの副作用は、長く続くこともある。そのため、患者さんのなかには、いつものように料理をつくれず、「家庭で自分の役割分担を果たせない」とストレスを感じる人もいるという。桑原さんは、「ある程度、割り切って」と助言する。出来合いのものを買ってきてもいいし、調味料の調合が要らない市販の調味料を使うのも一つの手だ。味覚障害のせいで料理が難しいのであれば、レシピどおりに、計測すればよい。

「どの程度味覚が変わっているのか、また、食べ方にしても、どういうときにはどんなものを食べられるのか、正確な情報を伝えることが大事だと思います。外科手術を行えば食べ物の通過障害が起こることもありますから、自分の体調を正確に受け止めて、食事の摂り方、付き合い方を知っておくべきでしょう」
桑原さんは同僚らと協力し、治療前、治療中、治療後の食事について、書籍や冊子にもまとめた。

10年の間の変化
『がん治療前の食事のヒント』『食事に困った時のヒント』(公益財団法人 がん研究振興財団)
『子宮・卵巣がん手術後の100日レシピ』加藤友康・桑原節子・岩崎啓子(女子栄養大学出版部)
『大腸がん手術後の100日レシピ』森谷冝皓・桑原節子・重野佐和子(女子栄養大学出版部)

「治療のみではなく、がん患者さんを人としてとらえ、安心して生活できるように支えることの価値が、ようやく認められてきました。私ががんセンターに在籍していた10年間で、がんセンター自体も、日本のがん医療のあり方も大きく変わったと思います」

その変化は、桑原さんが栄養士をめざした当初から想い描いていたことにも合致する。桑原さんが栄養学の道に進んだのは、50歳という若さで父親を脳卒中で亡くした経験から、「病気になってから治療するだけではなく、予防医学をしっかりやって病気そのものを減らすことが大事なんじゃないか」と考えたことがきっかけだった。

現在は、栄養士をめざす学生たちを教育する立場として、「同志を増やしたい」と桑原さんは話す。
「2人に1人ががんにかかると言われる時代です。がんの栄養管理をやりたいという学生を多く育てたいですし、支援部隊がどんどん増えてほしいですね。患者さんの埋もれたニーズを掘り起こし、いかにキャッチして次のアクションにつなげられるか、そうした感受性の高さが求められているように思います。また、全国的にみて、がんの栄養管理はまだまだ不十分だと思いますので、患者さんが何に困っているのかという声を拾って、製薬企業や厚生労働省などに伝えていくことも重要ですね」

その人の健康や生活に最も役立つ「食べ方」を伝える――。臨床の現場から教育の現場へと活躍の場は変わっても、その想いは変わらない。

(2013年5月)