最後の砦
東日本大震災において、東北大学病院は、まさに「最後の砦」の役割をしていた。野戦病院と化した石巻赤十字病院をはじめ、沿岸部の病院に医療チームを派遣し、それらの病院の医療機能がパンクしないよう、溢れた患者を次々と無条件に受け入れた。
ただし、震災当日、翌日はまだ静かだった。
建物の倒壊による重傷患者が多かった阪神・淡路大震災と違って、東日本大震災では津波による被害がほとんどで、死者・行方不明者が多数を占めた。そのため、求められる医療も、外科的な治療、超急性期の医療というよりも、悪化した慢性期患者さんへの対応、透析や在宅酸素など命をつなぐための医療が主だったからだ。
東北大学病院が宮城県内の病院へ、医師の派遣を積極的に開始したのは震災から4日目。「前線の病院を絶対に疲弊させるな!裏方に徹する」を合言葉に、震災発生から3週間だけで、延べ2 000人ものスタッフを気仙沼や石巻に派遣した。
一方で、「患者の転院は無条件で受け入れる」という里見進病院長の宣言どおり、連日、ヘリコプターや救急車で送られてくる入院患者さんを受け入れた。最大時には、遠方の被災地から270人を収容。東北大学病院のベッド数は1 308床だから、その2割を被災地から転院した患者さんが占めていた。
その裏で、ベッドを空ける努力も必要だった。「軽症の人には退院していただきましたし、自宅が被災していても比較的元気な患者さんには避難所に移ってもらいました。透析の患者さんは、北海道の病院にヘリコプターで送って対応してもらうなど、被災病院から受け入れては送り出すということを繰り返していました」
東北大学病院の腫瘍内科医・石岡千加史さんは、当時のことをこう説明する。