「君は思いのままに無理をしないで生きるんだよ。君の人生はあまり長くはないから」。当時10歳だったクリス・シュティール(Chris Stiehl)さん(米国のエンジニア)は、医師からこう告げられました。1961年、1型糖尿病と診断された時のことでした。
1型糖尿病はヒトの免疫系が誤って膵臓のβ細胞を攻撃し破壊することによって、十分にインスリンを分泌できなくなる病気です。現代の治療をもってしても、血糖値の上昇と低下の変動に患者は苦しんでいます。
しかし、かつて不可能とされていたヒトのβ細胞を再生する方法を、ノバルティスの研究者グループが発見しました。研究は初期段階ですが、失われたβ細胞を復元して糖尿病を根本から治療する経口剤の実現の可能性を示唆しています。
この研究に資金提供した国際若年性糖尿病研究財団(The Juvenile Diabetes Research Foundation International)の チーフ・サイエンティフィック・オフィサーであるリチャード・インゼル(Richard Insel)氏は「今回発表された化合物は世界で初めてヒトβ細胞の増殖促進作用を示した。研究は難航したが、画期的な新領域を開拓した」と述べています。
インスリン分泌能を保持したβ細胞を再生
多くの研究者が試みましたが、ヒトβ細胞の再生には成功していません。「この研究には望みがないと思われていました」とノバルティス研究財団ゲノミクス研究所(GNF)の創薬薬理学ディレクターのブライアン・ラフィット(Bryan Laffitte)は述べています。
しかし、わずかですがその可能性を示唆する研究が報告されていました。例えば、ヒトのβ細胞は幼年期に分裂すること。あるいは、成人1型糖尿病患者の解剖で数例にβ細胞再生の跡が見られたことなどです。「まれなケースですが、小さな希望となりました」とラフィットは言います。
そこでラフィットらは、細胞培養で非常に感度高くβ細胞の分裂を検出する方法を開発し、わずかな兆候も見逃さないようにしました。200万種類の化合物を使って、どの化合物がβ細胞の分裂を引き起こすのかをテストし、マウスとヒト両方のβ細胞に効果のある数種の化合物を絞り込むことに成功したのです。
実験の結果、再生した細胞にもグルコースに反応してインスリンを分泌する機能が示されました。「ヒト1型糖尿病モデルマウスにその化合物を投与すると、2週間以内に血糖管理の改善が見られました」とラフィットは説明します。
β細胞複製促進の機序を研究
ラフィットらは現在、これらの化合物がβ細胞の複製を促進する機序の解明に努めています。β細胞の再生を誘導するが他の細胞の複製は起こさない化合物*の発見がゴールです。
「安全性に問題がなく、必要な特性をすべて備える化合物を探索しています」とラフィットは説明します。そのような化合物が臨床試験に進むまでには、まだ多くのステップが必要です。
インスリン療法を50年以上続けているクリス・シュティールさんは、β細胞の再生医療の可能性に期待する1人です。「人生50歳までだと思っていましたが、今65歳です。糖尿病管理が少しでも楽になるならば、新しい治療法も試してみたいですね。もっと長生きしますよ」