2016年、ノバルティスバイオメディカル研究所(NIBR)トランスレーショナルメディシン部門のエグゼクティブディレクターのジェイソン・ララミー(Jason Laramie)は、マサチューセッツ工科大学(MIT)で開催された講演に出席しました。
そこで発表された装置は、壁の向こうにいる人間を感知し、動きや呼吸を追跡するだけでなく、心拍までも捉えることができるというものでした。この新しい装置に衝撃を受けたのは、ララミーだけではありませんでした。「ワイヤレスの装置が会場の隣の部屋にいる人の心拍を感知したことがわかると、会場中がざわめいた」とララミーは語ります。
ノバルティスの研究者たちは、常に創薬や医薬品開発に活用できそうな新しいデジタル技術の情報を追い求めています。ララミーも、この技術を臨床試験に活用することができれば、患者さんの健康状態を継続的に評価できるのではないかと考えました。さらにララミーは、ノバルティスのGenesis Labsと呼ばれる新たな社内プログラムによって、この研究のための資金を得るチャンスがあることもわかっていました。Genesis Labsとは、リスクが高くても大きなリターンが期待できそうな新しいアイデアを検証するために、必要な支援を研究者に提供するプログラムです。
ララミーが注目したのは、このMITの装置を活用すれば医師の検査回数が減るので、患者さんが臨床試験に参加しやすくなるのではないかという可能性です。また、治験薬の有効性などを研究者が評価する方法も刷新できるかもしれません。
「この技術を臨床試験で活用する方法を見つけたいと思っている。ワイヤレスモニタリングなら、在宅時のさまざまな健康状態の指標を患者さんが意識することなく測定でき、臨床試験に参加する患者さんの負担を軽減できるのではないか」とララミーは期待します。
システムを考案したMITの教授ディナ・カタビ(Dina Katabi)氏と、同氏が率いるMITコンピューター科学・人工知能研究所の研究チームは、ララミーのアイデアを聞いて即座に共同開発の重要性を理解しました。カタビ氏のチームには技術的な専門知識があり、ノバルティスは医薬品開発を熟知しています。同氏は「彼らは臨床試験のやり方をどのように変えられるか模索していた。広い視野で考えると、この上ないコラボレーションだ」と述べています。
アイデアから実行まで
カタビ氏とララミーのように、研究者同士が意気投合することはよくあるが、それぞれがオフィスでの日常業務に戻ると意気投合したそのときの興奮が薄れてしまいがちです。しかし今回、2人の出会いと時期を同じくして、NIBRがGenesis Labsプログラムの創設を発表したのです。
このプログラムは、創薬と医薬品開発プロセスを改善するアイデアを全社員から募集するもので、最も革新的なアイデアを提案した社員には、ベンチャーキャピタルの出資を受ける新規事業のように、社内の枠組みのなかで、そのアイデアを実現させるための時間、場所、資金が与えられます。ララミーが応募したデジタル技術を活用する創薬・医薬品開発プロジェクトには、特に関心が寄せられました。
Genesis Labsプログラムのリーダーのイアン・ハント(Ian Hunt)は、「社員が日々の業務から解放され、自分のアイデアに没頭できる場所を作りたかった。Genesis Labsとは、リスクが高くても潜在的に大きなリターンの可能性がある、既成概念を覆すようなコンセプトを見つけ出すための場だ」と説明します。
カタビ氏らの技術を臨床試験でどう活用できるか研究するため、ララミーはGenesis Labsプログラムに応募しました。この技術では、ワイヤレスルーターほどの大きさの装置を居室の壁に取り付ける。その装置はWi-Fi信号に似ているがそれよりも微弱な電波を発信し、その範囲は約140平方メートルに及びます。
電波は壁や椅子、人に反射して装置に跳ね返り、それをアンテナで拾ってコンピューターに送信します。コンピューターは物体の位置を推定し、壁や椅子などの動かないものと、人やペットなどの動くものとを識別します。その後、コンピューターは、人間の脳の学習機能を模倣する特別仕様の機械学習アルゴリズムによって、人の呼吸や心拍、動き、睡眠パターンなどの重要なシグナルを抽出するよう学習していきます。
カタビ氏は「このワイヤレスシグナルの優れたところは、実際に触れることなく人体を観察できることだ」と言います。
患者さんの日常生活を定量化
現行の評価方法では、患者さんの運動能力を測定するのに手間も時間もかかります。運動機能に関する臨床試験に参加する被験者は、定期的に医療機関に出向かなければなりません。その検査内容は、被験者が廊下を歩き、医師がストップウォッチを見ながら6分間に歩行する距離を測定するというものです。運動機能の改善を目的とする医薬品の臨床試験では、被験者は往々にして高齢か、フレイル(虚弱)、慢性疾患患者であることが多いため、こうした検査方法が負担になります。さらに、体力増強や呼吸症状の緩和、行動範囲の拡大を目指す医薬品の場合、従来の検査で捉えられる変化は限定的です。NIBRの筋骨格疾患トランスレーショナルメディシン部門の責任者ロネン・ルーベノフ(Ronenn Roubenoff)は「ワイヤレスモニタリングなら、患者さんの日常生活の行動がわかる。現在行われている臨床試験のような人為的な状況ではなく、いつもの環境で過ごす患者さんの行動だ」と期待を寄せます。なお、実際にシステムが使用されるのは患者さんの同意を得た場合のみで、収集したデータは医療上の守秘義務規約によって保護されます。
MITのワイヤレスモニタリングの技術を臨床試験に活用するというララミーの提案は、Genesis Labsプログラムが支援を決めた5つのプロジェクトのうちの1つに選ばれました。研究作業はすでに始まり、今後18カ月間にわたってこの技術の分析と開発が進められます。
一方、Genesis Labsプログラムでは、まもなく新たな提案募集を行う予定です。次回は特に、外部との共同研究を行うアイデアを重視するとしています。
「Genesis Labsを通じ、2つのまったく異なる技術領域がこのプロジェクトで引き合わされた。社内と外部の研究者では考え方もかなり違う。だがその結果、起業家精神とも相まって、驚くべき成果が生み出されるだろう」と、ハントは語ります。