急性リンパ性白血病:思春期の発症と葛藤

罪悪感と劣等感に苛まれた高校時代。発症から15年の節目に訪れた転機

Aug 10, 2018

「最初、自分の中では治療をしている感覚ではなく、言われるままに体を差し出しているだけという感覚でした」

裕子さんが急性リンパ性白血病(ALL)の診断を受けたのは、高校1年生の冬、16歳のときでした。40℃を超える高熱が出て、年明けに病院へ行ったところ、即刻入院を告げられました。母の雅子さんは、当時のことを次のように振り返ります。

「状態がとても悪く、1日でも早く治療を開始したいと医師に言われました。2種類の薬を使った化学療法を4クール、少なくとも半年間の入院が求められました。もちろん、骨髄移植も考え、家族全員で血液検査を受けました。幸いなことに、裕子の姉が適合しており移植が可能だということがわかりました。でも、裕子には、1クール目の治療で効果があらわれ、移植はせずに済みました。医師はとても喜んでくれましたが、その時はそれがどれだけ幸運なことか私には理解できませんでした」

AYA世代ならではの繊細な悩み

思春期だった裕子さんは、突然始まった闘病生活を受け入れることができませんでした。人と会うことを避け、背中を向けて寝るのがやっと。そんな娘の様子を見て、雅子さんは病名を本人に告げませんでした。

「聞きたいと言えば病名を伝えるつもりでしたが、思春期の敏感な年齢なので、裕子には慎重に接しました。病名を知って闘う気持ちになる方もいるでしょうが、裕子はとても繊細で、まだ16歳でしたから」
裕子さんと同じように15歳から30代の思春期・若年成人のがん患者はAYA世代(Adolescent and Young Adult)と呼ばれ、治療だけでなく、進学や就労などを含めた生活のサポート、心のケアなどが必要とされています。

裕子さんの闘病の支えとなったのは、愛犬の存在と、高校から始めたバスケットボールでした。退院すれば、学校の仲間たちと大好きなバスケットボールができる、その一心で辛い治療を耐え抜きました。
「バスケットボール部の顧問の先生が、治療の合間にお見舞いに来てくれて。先生は病名も知っていたし、私の弱い部分や強がっている部分も見抜いていてくれたので、素直に弱音を吐いたり、不安を伝えることができました。私の調子が悪くて会えなかったときも、病院に足を運んでくれていたと聞き、勇気が出ました。待っていてくれる人がいる、学校に行きたい、帰りたい、帰らなければと思いました」

治療は順調に進み、半年ほどで退院、学校にも復帰することができました。しかし、自分の病名について雅子さんと話ができたのは、成人を迎えた20歳の頃だったといいます。
「最初の治療で髪の毛が抜け落ちた時は、『抗がん剤の影響かもしれない』と思いました。病名も薄々は気が付いていましたが、知ったからといって病気が治る訳でもないと思いました。20歳になって、やっと自分の病名を知りましたが、白血病のタイプやどんな治療をしてきたのかということまでは知りたくありませんでした。やはり、まだ病気自体も、病気になってしまった自分も受け入れられなかったのです」

チャリティバスケが導いた縁

そんな裕子さんが自分の病気としっかり向き合うきっかけになったのは、2017年10月に自身が開催したチャリティ・バスケットボール大会でした。当初、裕子さんは、ご家族や主治医の先生に感謝の気持ちを伝えるつもりで企画を立てました。寛解到達から15年、30歳を迎え、仕事が忙しいながらも平穏な毎日を過ごせることへの感謝を伝えたいと考えたのです。言葉で伝えるのではなく、自分が幸せに感じている瞬間を見てもらいたいという思いから、バスケットボールの大会を企画しました。その時、主治医に紹介された募金先が、NPO法人 血液情報広場 つばさが運営する「つばさ支援基金」でした。

NPO法人 血液情報広場 つばさは、がんを含めた血液疾患と闘う人たちに、よりよい治療選択のための情報を届ける活動をしています。

裕子さんはすぐに行動を起こしました。つばさフォーラムに赴き、代表の橋本明子さんにチャリティ・バスケットボール大会の企画書を手渡したのです。

橋本さんは、寄付の受け入れ先となることを快諾。裕子さんからの申し出を聞いて、支援基金を続けてきたことの意味を改めて感じたといいます。
「私は、1986年に骨髄バンクの設立運動をしていました。当時は、医療情報も薬もほとんどなく、選択肢は非常に限られていました。いつか、白血病が薬で治る時代が来ることを待ち望んでいました。現在では、医療が進展して、その願いが実現しつつあります。そして、ついにそれをまさに体現する裕子さんが現れ、とても感動したことを覚えています。私にとってはまさに『天使降臨』でしたね」

病気だった自分を認め、今を生きる

チャリティ・バスケットボール大会は、裕子さんにとって、ポジティブな変化をもたらしました。
「企画当初は、私自身の感謝の気持ちを伝えたいということが主な目的でした。参加してくれた方の中には、『私は乳がんでした』、『未熟児で生まれました』と打ち明けてくださる方もいました。見た目ではわからなくても、病気や入院経験のある人や、それによるコンプレックスを抱えている人が意外に多くいることがわかりました。バスケットボールを通じて、そういう人たちとの交流が生まれ、次のアクションに繋がったことが嬉しくて」

裕子さんは、病気になってしまったという親への罪悪感や貴重な青春時代を病院で過ごさなければならなかったという劣等感に苛まれて生きていたといいます。しかし、仲間と出会ったことで、病気をなかったことにするのではなく、私自身に病気のことを教えてあげようという気持ちが芽生えたといいます。

「つばさには、同じ白血病を克服した仲間がいて、その人たちは、自分はどんな病気で、どんな治療をして、そしてこんな状態になったと、自分の身に起きたことについてとても熱心に語ってくれました。それをきっかけに、私自身も白血病のことを学んで、どんな薬を使っていたのか、それがどれほど辛い治療だったのか、理解したのはつい最近です」

治療を終えると、病気のことや辛い気持ちを吐き出す場面はなかなかありません。多くの人が、そんな目に見えない辛さを共有し、気持ちを引き出せる仲間の大切さを裕子さんは実感しています。今後もチャリティ・バスケットボール大会は続けていく予定です。