「あの頃はまだ小さかったけれど、苦しかったことはよく覚えています。まったく体を動かすことができなくて、ずっとこのままなんだろうか、とただ不安に思っていました」
そう語る諒汰郎さんは、現在高校3年生。一見したところごく普通の爽やかな青年ですが、難病に指定されている全身型若年性特発性関節炎(SJIA)を抱えています。はじめて諒汰郎さんの体に異変が現れたのは、わずか4歳のときでした。
「突然41度の高熱が出て近くの病院に行きましたが、単なる感染症という診断でした。なかなか熱が下がらず、全身の痛みで体も起こせない。『僕、死にたくない』という言葉が出るくらい、苦しそうな様子が続いていました」と、当時の緊迫した状況を語るのは父親の光晴さん。総合病院に入院して治療を受けるようになっても事態は好転せず、体を動かせない日々が続きました。
「何もしてあげられないし、どういう痛みかもわからない。お医者さんの話によると、太い針をぶすぶすと刺すような激痛だったそうです。食事も一切とれず寝たきりで、骨と皮になった諒汰郎を見るのは辛かったです」と母親の秋子さんも振り返ります。しばらくはそこで治療を続けましたが一向に改善が見られないために、国立病院に転院。そこでようやく若年性特発性関節炎(JIA)の全身型という診断が下りました。
JIAは、16歳未満で発症する原因不明の慢性関節炎です。影響の及ぶ範囲によっていくつかのタイプに分かれますが、日本での患者さんの4割が諒汰郎さんと同じ全身型と診断されています。全身型は関節の痛みに加えて2週間以上続く発熱、リンパ節や内臓の炎症、腫れなどを伴うのが特徴。現在、全身型は日本では10万人当たり約4人の発症率とされ、全国で5千人ほどの患者さんがいると見られています。ただし、ひとくちにJIAと言っても、人によって症状も様々なら、治療方法、治療効果も異なるのが現状です。
病名がわかると同時に、諒汰郎さんにはステロイド剤による治療が開始されました。すると、あれほど続いた高熱が急にすうっと下がり、痛みも和らぎ、手も足も体も徐々に動かせるようになります。最大の危機を脱したことがわかり、一家にひととき安堵感が広がりました。
同じ境遇の親子に出会えたことが心の支えに
6歳になった諒汰郎さんは、痛みやだるさもない、体も自由に動かせるという喜びとともに小学校に入学しました。本来であればここから徐々に薬の量を減らして、最終的に止めることができるのが理想です。けれども、量を減らそうとすると再び発熱や痛みがぶり返してしまう……。なかなか薬を減らすことができない中で、次第に顔が膨れて丸くなる通称ムーンフェイスや多毛症などの副作用が気になるようになってきました。しかも医師からは、薬を使い続けることで低身長や緑内障などの発症もあり得ると説明を受けていたのです。
さらに、依然として運動には制限がありました。関節に負担をかけないように、体育の授業はほとんど見学です。
「運動会があっても出られる競技が限られている。みんなは無理しなくていいよと言ってくれるんですが、自分だってやりたいのになんでできないんだろう。特別扱いみたいで嫌だなと感じていました」と諒汰郎さんは言います。
いつまでこの治療を続けてゆくのだろう、この先成長とともにどんな困難に直面するのだろう。そんな不安を抱えていた両親の心の支えになったのが、JIAの子どもを持つ親たちの患者団体、あすなろ会でした。
「あすなろ会に入ってはじめて、悩んでいるのは私たちだけじゃないんだということを知りました」と光晴さんが言えば、「同じ悩みを抱えてきた方たちの体験や、患者さん本人の声を聞くことができてとても勉強になりました」と秋子さんも言います。
そこで得たのが、生物学的製剤の治験に関する情報です。薬の影響で緑内障も発症した諒汰郎さんは、この新しい治療に挑戦することになりました。これが体にうまく作用して、やがてステロイド剤を中止することができるようになったのです。
「2~4週間に1回、片道2時間以上かけて病院に通って治療を受けましたが、そのおかげで顔ももとに戻りましたし、見違えるほど自由に動けるようになったんです」と秋子さんは言います。
病気とともに歩む将来に希望を持って
やがて中学生になった諒汰郎さんは、バスケットボール部に入部。一時は考えられなかった激しいスポーツに打ち込むようになりました。高校に入ると、自分自身とより深く向き合える競技を求めて陸上部に。長距離の選手として活躍します。
「小学生のときに思い切り体を動かせなかったから、いずれは何かしたいと思っていたんですが、バスケットボールを通じて体を動かすことが楽しいと思うようになりました。かつては体育の授業に出ることさえ考えられなかったのが、今ではあたりまえに運動している。夢みたいだな、あの頃は考えられなかったなと思います」と諒汰郎さんは語ります。
現在は陸上部も引退して、大学受験を控える諒汰郎さん。将来のことを考える立場になりました。
「自分はこんなに回復していますが、同じ病気でも回復できていない人もいるし、今も寝たきり状態という人もいます。そういう人たちが普通の生活に戻れるところまでは、医療が進歩してほしい。将来、自分ができる最大限の努力で困っている人を助けたいと思っています」
そう希望を語る諒汰郎さんに、秋子さんは「辛いときに親が暗い顔をしてしまっていたのに、本人が勇気づけてくれたこともありました。人の痛みがわかる優しい子に育ったと思っています」と目を細めます。
「難病になったことで、ちょっとしたことで子どもの成長を嬉しく思えるようになりました。誕生日を迎えるごとに、ああ、病気を抱えながらも17歳になったんだと嬉しく思います」と語る光晴さんは、これから大きな社会に向けて一歩を踏み出そうとしている諒汰郎さんにエールを送ります。
「たとえば就職などにも、不安がないわけではありません。障害者支援はありますが、難病支援というのはありませんから。ただ、病気を持っていなければ幸せかと言われれば必ずしもそうとも限りませんよね。先生が、病気も個性の一つだ、とおっしゃっていました。これからも治療は続いていきますが、諒汰郎には、好きな道を選んで力強く歩んでいってほしいと望んでいます」
そんな両親を少し離れたところから見つめる諒汰郎さんは、「少し恥ずかしいけれど」と前置きをしてそっと語ります。
「両親が自分の病気に対して一生懸命やってくれていたのを、小さい頃からずっと見ていました。自分が今こういうふうに生活できるのは親がいてこそだし、精神面でもずいぶん助けてもらっています。感謝していると簡単には言えないほど感謝していますし、恩返しもしたいと思っています」