何もできなかった
「何にもして差し上げられなかったんです。」
3 000人以上もの死者が出た石巻市で、唯一、水没から免れ、自家発電装置を備えていた石巻赤十字病院には多くの患者さんが殺到し、石巻医療圏の災害医療の拠点となっていた。そんな同院で働く看護師の佐藤京子さんは、当時のことを振り返って、「何もできなかった」と目を伏せる。
震災翌日、佐藤が病院に到着すると、野戦病院のような光景が広がっていた。病院の正面玄関ではトリアージが行われ、1階には赤・黄・緑のシートが敷かれ、簡易ベッドが所狭しと並んでいた。軽症の患者さんは正面の玄関ホールに設けられた“緑エリア”へ、緊急ではない中レベルの患者さんは外来待合に設けられた“黄エリア”へ、ただちに処置が必要な重症患者さんは救命救急センターに設けられた“赤エリア”へ、それぞれ運ばれた。
佐藤さんがまず担当したのは、搬送班だ。たとえば赤エリアで処置を行った後、入院が必要になった患者さんを、1階から入院病棟へと上げる。そうした手配を行った。その後、トリアージ班、そして赤エリアの家族支援の担当に移った。
肺炎や低体温症を発症したり、あるいは持病が悪化し、急に具合が悪くなっているのを家族が発見し、救急車で搬送される。命が助からないケースも多くあった。地震、津波から逃れて生き延びたのに、なぜ。そんなやり場のない気持ちと、「突然、大事な人を亡くした」という強い不安を抱える家族のそばに寄り添い、話を聞き、「大変でしたね」と一緒に受け止めてあげることが、佐藤さんの役割だった。
しかも次々と患者さんが運ばれてくるなかで、一人ひとりに十分な時間をかけることはできずに、次々と対応せざるを得なかった。
亡くなった方を収容する、黒エリアの担当もした。その時のことを言葉にしようとすると、震災から9ヶ月経った今でも、光景がフラッシュバックする。ずぶ濡れのままの方、泥で汚れた衣服を身にまとった方・・・。「本来だったら患者さんが亡くなったときには、私たち看護師はご家族と一緒に患者さんにまつわる思い出話をしたり、患者さんの好きな洋服を着せて、ご遺体をきれいにして、お見送りをするものなのに、何もして差し上げられませんでした。」
ご遺族が面会に来れた場合には、ご遺体袋を開けて顔をみせてあげながら、「息子さんが来たよ」、「お嫁さんが来てくれたよ、よかったね」と声をかけた。辛い仕事だった。胸にこみ上げてくるものを抱えながらも、患者さん、家族の前では泣かないようにと必死だった。