患者さんの命をつなぐ

東北大学病院薬剤師 患者さんの命をつなぐ

 患者さんの命をつなぐ


「まず考えたのは、患者さんの安全を守ること、患者さんの命をつなぐこと」——。

東北大学病院に務める薬剤師の北村奈央子さんは、地震発生のとき、病院の東病棟の4階にいた。化学療法センターで抗がん剤治療を受けている患者さんに薬の説明をし始めたところだった。

持っていた携帯電話に緊急地震速報が入り、アラーム音が鳴り響き、ベッドサイドのテレビからも地震の発生を知らせる警戒音が鳴った。

「嘘じゃないよね?」と思っているうちに、ガガガガガガガガッと揺れがきた。「これはまずい」と思った北村さんは、とっさに目の前の患者さんとその母親の上に覆いかぶさった。

揺れが収まったかと思うと、またすぐにやってくる。断続的な揺れが続くなか、避難経路を確保するために扉を開け、保管している医薬品をチェックした。その日は、月曜日に行う治療のために、400万円相当の抗がん剤が置いてあった。抗がん剤の調剤を行う安全キャビネットが壊れたら困るし、薬などを保管している冷蔵庫が壊れても困る。

「調剤薬局もパニックになっているだろうし、流通もストップするだろう。治療を再開できなくなったら患者さんが困る、患者さんにとって生きる術である薬がなくなったら困る。」そう考えて、いつもなら院外の調剤薬局で出すようにしている薬を、院内での処方に切り替えるよう、医師に頼み込んだ。

特に心配したのが、医療用麻薬だ。抗がん剤治療を受けている患者さんのなかには、医療用麻薬を使って痛みをコントロールしながら、なんとか日常生活を送っている人は多い。もし、なくなれば、あまりの痛みに気を失ったり、「もう生きていけない」と絶望してしまう人もいるだろう。さらに、急に服薬を止めれば、発汗や呼吸困難など禁断症状が起こることもある。

「そうはさせられない。」北村さんは、薬を準備し、一人ひとりの患者さんに手渡した。

道路の左右で異なる風景に愕然とした

道路の左右で異なる風景に愕然とした


翌日になると、病院ではトリアージが始まった。緑、黄、赤、黒。大規模災害発生時には、医療の緊急度や重症度に応じて、患者さんの分類が行われる。緑は軽症で専門医の治療を必要としない患者さん、黄は多少対応が遅れても命に危険はない患者さん、赤はすぐに処置を行えば命を救える可能性のある患者さん、そして黒は死亡症例、あるいは救命の見込みのない症例だ。最初にトリアージで運ばれた患者さんは、黒だった。

重症患者さんが次々と運ばれてくるなか、薬剤部も緊急体制が敷かれ、いつもは2名で行っている夜勤も、8~10人に増やした。

院内対応に追われるなか、月曜日からは石巻を中心とした被災地の支援活動も始まった。北村さん自身が被災地に行ったのは、震災から10日ほど経ってからのことだ。医師2人、看護師2人とともにチームを組んで、仙台市から南に下った岩沼市にある避難所に向かった。道中、道路を挟んで海側と内陸側の景色の違いに愕然とした。内陸側には変わりない町並みがあるのに、津波が押し寄せた海側は何もない。

東北大学病院薬剤師 道路の左右で異なる風景に愕然とした
「状況を第三者で伝えるには映像が一番」。360度、切れ目のない映像を撮影し、現場の状況を伝えた。地震直後もメール送受信ができた携帯電話は、貴重な連絡手段だった

現地に着くと、遺体安置所になっていた体育館には、棺に入らない遺体が、ビニールシートからもはみ出すような状態で並んでいた。

10日が経っていたが、皆、半狂乱の状態だった。「知っている人もいらっしゃったのですが、言葉にならなくて」。なんとかかけた言葉は、「生きていて良かったね」。

何もできていない・・・ もどかしさから始まった「One worldプロジェクト」

何もできていない・・・
もどかしさから始まった「One worldプロジェクト」


ちょうどその頃、東北大学病院では通常の外来を少しずつ再開していた。同時に、抗がん剤の治療も始まった。患者さんのなかには、避難所や仮設住宅から通う人もいた。

抗がん剤治療を受ける患者さんが次第に増えるなか、化学療法センター内での調剤を担当していた北村さんは、患者さんと直接話す機会も多く、「家族を流された」、「家は浸水して、もう土台しか残っていない」、「夫の遺影も子どもたちの思い出も何にも残っていない」・・・、そんな話を多く耳にした。

被災地の支援には1日しか行けなかったし、私は何もできていない。
今の自分に何かできることがあるんじゃないか——?

ある時、抗がん剤治療を受けた患者さんに薬の説明をしていた時のこと。

「そろそろ髪の毛が抜ける時期ですよね?」と聞くと、それまではバンダナを外したことのなかった患者さんが、「病院だから脱げるけど・・・」と北村さんの目の前でバンダナを外してくれた。「抜けるということはわかっていた。でも、こんなになっちゃった」。

別の乳がん患者さんは、「ごめんね。今日、臭いんだ」と言って病院に来た。「どうして?自衛隊が入浴サービスを始めているでしょう?」と聞くと、「おっぱいがないから、見られるのは嫌だ」という。

北村さんは、乳がんで片方の乳房を摘出した祖母が、いつも詰め物をして隠しているのを見ていた。

普通の下着すら足りていない、着替える場所も確保されていない、そんな状況で、乳がんの患者たちはどうしているのだろう。そう考えたときに、「私にできるのは、これかな」と思った。

「カツラが足りない、がん患者用の下着も足りない」。がん患者さんの就業支援などを手がけるキャンサー・ソリューションズ代表取締役の桜井なおみさんに、北村さんが電話でぼやいたのは4月7日のこと。それからすぐにプロジェクト「ONE WORLD」が動き、4月17日には第一便として、カツラや帽子が北村さんのもとに届いた。趣旨に賛同してくれたがん患者さん、メーカーから寄せられたものだ。

東北大学病院薬剤師 何もできていない・・・もどかしさから始まった「One worldプロジェクト」

カツラを永久“レンタル”にしたのは、「カツラに依存するのではなく、自分で次の一歩を踏み出してほしかったから」。

「カツラは、治療が終わるまでの間、その人らしさを保持するためのもの。使い続けるのではなく、『もうこれは要らない!』と、次の自分に進むために手放してほしい。髪の毛を変えることで気持ちの切り替えにもなる。同じところに立ち止まっていてほしくはないので、あくまでもレンタルで、要らなくなったら返してもらおうと考えていました」

その人らしく生きられるようサポート 震災の前も後も仕事のスタンスは変わらない

その人らしく生きられるようサポート
震災の前も後も仕事のスタンスは変わらない


震災当日、家に帰った北村さんがまず行ったのは、部屋の中で怯えているであろう猫を探し出すことだった。「私たち夫婦にとって、猫は子どものような存在なので」。電気がつかないなか、携帯電話のライトをつけて、一時間近く、部屋のなかを探し回った。

今回の震災で、北村さんにとって最も気がかりだったのは、「やっぱり家族の安否だった」という。震災当日も携帯電話のメールが通じていたため、家族とは連絡が取れていた。夜には、両親と電話で話し、夫の両親の安否も確認できた。

ただ、津波で親戚を亡くした。「一番衝撃を受けたのは、『遺体が上がった』と連絡をもらった時でした。『え?』と言ったきり、固まりました」

One worldプロジェクトは、現在も継続的に行われている。これまでに1700点以上のカツラ、下着が寄せられ、事務局を経由して北村さんのもとに届き、被災地の病院に配られている。これまでに40人ほどの患者には、直接、届けた。

「カツラをかぶった瞬間、表情がぱーっと明るくなるんです。元気になって前に進む人が見たくて、私はこの仕事をやっているんですよね」

東北大学病院薬剤師 その人らしく生きられるようサポート 震災の前も後も仕事のスタンスは変わらない

「患者さんにも家族があるし、自分自身も“がん患者の家族”になったことがある」。気持ちがわかるからこそ、「みんなが普通の生活を送ることができるように、なるべく手伝いたい」と思っている。

「病気も含めて、その人」と北村さんは言う。「みんな、どこかしら壊れているし、そのすべてが個性。そのなかでその人らしく生きてほしい。薬剤師は、患者さんをサポートするのが仕事。仕事に対するスタンスは、震災の前も後も変わりません」

ただ唯一、変わったことがあるとすれば、「なるべく残業をしないで帰ること」。家で待つ臆病な猫が心配だからだ。

(2011年12月)