急性リンパ性白血病も8割は治る時代に

急性リンパ性白血病も8割は治る時代に

急性リンパ性白血病も8割は治る時代に


急性リンパ性白血病も8割は治る時代に

小児がんの治療はこの30年で大きく変わった。
「私が研修医だった1980年代前半は、『残念ながら小児がんです。1日でも長く生きられるよう、頑張って治療をしましょう。』そうご家族に説明することから治療が始まる時代でした。」聖路加国際病院(取材当時)の小児科医長・石田也寸志さんは、そう振り返る。

1950年代、60年代までは、早期に見つかり、運よく外科手術で取りきれるような一部のがんのみ1、2割が長期生存するという状況で、白血病にいたっては、5年生存率は限りなく0%に近かった。ところが現在では、小児がんの5年生存率は平均で7、8割を超える。なかでも、標準危険群の急性リンパ性白血病、ホジキンリンパ腫、ウイルムス腫瘍(腎芽細胞由来のがん)などは9割近く、治癒が期待できるようになっている。

その背景には、(1)放射線療法や化学療法、骨髄移植など外科手術以外のさまざまな治療法が開発され進歩し、それらを組み合わせて集学的に治療を行えるようになったこと、(2)感染症予防や栄養の維持、嘔吐や発熱などの副作用対策など、治療をスムーズに進めるための「支持療法」の発展がある。これら2つは裏表の関係にあり、支持療法が発達したからこそ、昔であれば不可能であったより強い治療ができるようになっていった、とも言える。

ただし、それは良いことだけをもたらしたわけではなかった。より効果の高い強い治療の代償として、合併症が増加したのだ。特に問題になっているのが、「晩期合併症」と言われる、がんの“治癒”から10年、20年、あるいは30年という月日を経て起こるさまざまな症状だ。

命にかかわるものから、生活の質にかかわるものまで、また日常生活には支障のない軽度のものから重度のものまでさまざまだが、小児がん経験者の約5割が、何らかの晩期合併症を発症するという。

「治癒の質」という課題

「治癒の質」という課題


小児がんで生じる晩期合併症は、大きく4つに分けることができる。

一つは、心臓や肺、腎臓、内分泌機能などに直接臓器に及ぶ影響だ。心臓に負担をかける薬を多く使えば、心機能不全が起こりやすくなり、内分泌に負担を与える薬を多く使えば内分泌障害が起こりうる。ただし、「これらは大人のがんでも起こること」と石田さんは言う。

一方、一般に「がん年齢」と言われる60代、70代のがんと比べて小児がんに特徴的な晩期合併症は、成長・発達への影響、不妊などの生殖機能への影響、二次がんの3つがあげられる。

小児がんの子どもたちは、まさに成長・発育ざかりの時期に治療を受けるため、身長が伸びない、骨が伸びない、足の長さが左右で異なるといった身体への影響が出たり、通常の学校生活を十分に経験できず社会性が身につきにくいなど心理社会面への影響を受けたりすることがある。

また、二次がんは、がんが治った後、20~30年経ってから発症することがある。そのため60代、70代であればあまり問題にならないが、小児がん経験者にとってはまさに働きざかりの時期に二次がんの心配があるわけだ。不妊などの問題にしても、同じことが言える。

「子どもたちの場合、治ってからの人生の方が長いのです」。石田さんは言う。
5歳で小児がんにかかって、2年間治療を受け、10年後に主治医から「治癒しました」と言われたとしても、まだ17歳だ。その先には、就職や結婚、出産などの人生の中で最も大きなイベントもあるだろうし、それまでの何倍もの長さの人生が待っているだろう。

「治ってからの人生の充実が大切で、ただ治すだけでは不十分では――。小児がんの治療に携わって20年近くが経ったとき、ふとそう思ったんです」

10年ほど前から石田さんは、「治癒した後の人生の質」を重視し、診療、研究を行っている。

変わる治療

変わる治療


「どうしたら治療による心理的な影響を少なくできるか、身体への合併症を少なくできるかということは、だいぶわかってきています」

たとえば、物心もつかないほど幼い頃に治療を受けた人のなかには、「心的外傷徴候(PTSS:Post-traumatic stress symptom)」と言い、自分では覚えていないにもかかわらず、痛かった記憶、大変な出来事を経験したことが無意識のなかにトラウマのように残ることがあるという。
「たとえば、背中に針を刺す腰椎穿刺の場合、自分の見えないところでブスッと針を刺されて痛い思いをした子どものなかには、後ろに人がいるだけでビクッとするようになったり、ちょっと背中を触れられただけで条件反射のように痛みを思い出したりしてしまう子もいます。そのため今では、痛みを感じないように全身麻酔をかけて、記憶を残さないように行うことが多くなりました」

これはほんの一例だ。治療自体もなるべく心理的影響や晩期合併症が生じないようにと改善されている。もう一つ変わりつつあるのが、長期的なフォローアップ体制に目が向けられてきていること。

治療中は医師や看護師、薬剤師、教師、保育士などがチームを組み、副作用や家族関係、学習の問題なども含めて治療にあたり(トータルケア)、治療が終了したあとも、臨床心理士、ソーシャルワーカー、ボランティアなどが加わり、晩期合併症が生じれば、家庭医、産婦人科医、泌尿器科医、内科専門医、精神科医など、各専門医への紹介、あるいはサポートしてもらうという形で、さまざまな専門家がかかわり、治療が終わってからも引き続きトータルにフォローできる体制の必要性が認識されつつある。

「難しいのは、小児医療から成人医療への“移行”です」と石田さんは話す。
小児がん経験者とはいえども、ずっと小児科だけにかかり続けるわけにはいかない。しかし、成人診療科の医療者たちは当然、これまでの経過を知らないし、専門家ではあっても小児がんやその晩期合併症に詳しいわけではない。さらに、小児がんの治療という大変な時間を共有しているからこそ、患者さんもご家族も、もともとの主治医に対する信頼が厚い。

この移行の問題を解消するツールとして、小児がんの晩期合併症にはどのようなものがあり、どのようなフォローが必要か、現在ガイドラインを作成しているところだ。また、「母子健康手帳」のように、治療や健康状態の記録をする「長期フォローアップ手帳」も作成している。

原点となった患者さん

原点となった患者さん


病院での診療以外にも、小児がん経験者でも加入できる医療共済「ハートリンク共済」や、小児がん経験者の就労支援を行う「ハートリンクワーキングプロジェクト」など幅広い活動に関わっている、石田さん。

小児がんを専門とすることを決めたのは、「研修医時代に一番印象的だったのが、小児がんの患者さんだったから」だ。

まだ3歳くらいの女の子だった。「小児がんは治らない」と言われていた時代だったが、「どうにか治したい」と考えた石田さんは国内外の論文を読み漁り、その時点で最善と考えられる治療を行った。しかし、強い治療には合併症がつきものだ。同じ病棟には、同僚が担当する同じ病気の子どももいたが、明らかに石田さんが担当していた女の子の方が治療中にさまざまな合併症や副作用を経験した。
「『なんでこんな強い治療をするんですか』『なんでこんなにつらい思いをさせるのですか』と、親御さんには半分恨まれながらも、『治したい』という一心でした」

結果的には、石田さんが受け持っていた子はなんとか病気を乗り越えて退院し、同時期に治療を受けていたもうひとりの子は、残念ながら亡くなった。

「結果論なので、比べることはできません。でも、なかなか治らないと言われていた時期だったからこそ、とても印象に残っています。そのときには何の経験もなく、論文から情報を集めることしかできなかったので、もっと多くの経験を積んで、しっかり治せる医師になりたいと思ったんです」。それが、小児がんをめざそうと決めた理由だ。

石田さんが小児がんの専門医になるきっかけとなった、その女の子は成人し、今では30歳を超えているはずだ。
「音信不通になってしまいましたが、強い治療をしたのでいろいろなことで苦労していなければいいのですが…」と石田さん。「10年、20年後、困ったときに手助けすることも、治療をした我々の責任ですから」。

これまで石田さんが主治医としてかかわった小児がんの子どもたちは200人以上に上る。そのほぼ全員と連絡が取れる関係を保っており、妊娠や出産などの節目のタイミングで相談や報告の連絡をもらうこともしばしば。

「子どもは常に成長し、無限の可能性を持っています」。小児科を志した原点である“無限の可能性”を広げるべく、これから治療を受ける子どものために長期的にも問題が起こらない治療を考えること、そして今なお治癒が難しい一部のがんを治す方法を考えること。一方で、すでに治療を受けた人のために、起こりうる合併症を未然に防ぎ、健康で充実した生活が送れるようにフォローすること。それが、今の目標だ。

原点となった患者さん

 (2012年9月)