治療ダメージを受けやすい"口の中"

治療ダメージを受けやすい口の中

 治療ダメージを受けやすい"口の中"


「口の中というのは、いつも多くの細菌がいるところで、何種類もの細菌がいます。また,その細菌は増えたり減ったり、常に状況が変わります。ですから身体の抵抗力が落ちると、細菌が増えて慢性的な感染症が起こりやすくなり、何らかのトラブルをおこしてしまうんです。」
こう説明するのは、岡山大学病院腫瘍センターで、日々、多くのがん患者さんに接している歯科衛生士の杉浦裕子さんだ。

疲れているとき、ストレスがたまっているときに限って、歯や歯茎が痛くなったり、口内炎ができたり、親知らずが存在感を増したり―――。それらは、口腔内の細菌が増加して、"細菌のバランス"が崩れている証拠だ。そして、がん治療中も、口腔内の細菌のバランスが崩れやすい。

「体の抵抗力が落ちたときに、真っ先にダメージを受けやすいのが口の中の粘膜です。もともとたくさんの細菌がすみついているので、影響を受けやすいのです。多くの場合、口の中のトラブルは痛みを伴うので、患者さんにとってはとても辛い症状だと思います。」

口内炎は、抗がん剤で生じる副作用のなかでも、頻繁に起こりやすいもののひとつだ。ひどい場合には、痛みのあまり食事が摂れない、薬が飲めない、傷口から感染する、などにより治療に支障をきたす場合もある。食事が十分とれないことで、抵抗力が落ちる・口の中が磨けない・口腔内の環境悪化、いう悪循環にも陥りやすい。

こうしたことを防ぐため、岡山大学病院では、血液がん患者さんはもとより、がんの手術・化学療法・放射線治療などを受ける患者さんには、歯科を受診してもらうようにしている。「手術後、しばらく口の中のお手入れが十分できなくなる場合もありますから、そうした時にトラブルが出ないように、歯科衛生士がセルフケアの指導を行い、さらには口の中をきれいにして差し上げて、なるべく細菌のいない状態で手術に挑んで頂くようにしています。」

初めて見た白血病患者さんの口腔内

初めて見た白血病患者さんの口腔内


岡山大学病院で、がん治療に歯科のチームが加わり、口腔ケアに力を入れるようになったのは2003年のこと。そして杉浦さん自身が加わったのは、2004年のことだ。当初は、「歯周病のエキスパートになりたい!」と思って、岡山大学の大学院の門(現岡山大学医歯薬学総合研究科の歯周病態学分野)をくぐった。そこで指導担当としてついてくれたのが、前述の歯科チームを率いる歯科医師だった。

「歯周病のエキスパートになろうと思って大学院に入ったのですが、最初に先生と訪問した先の病棟が、これから移植を受ける予定の白血病の患者さんが入院している病棟でした」

一般の病棟とは違い、免疫力が低下している患者さんは、感染を防ぐためにクリーンルームに入って治療を受けている。この病棟に入る前には、二重の扉(一つが閉まらないと次の扉は開かない仕組み)が存在する。患者さんに会うまでに、何回も手をしっかり洗って入室する。緊張しながら病室に入り、みせてもらった患者さんの口の中は、杉浦さんがこれまで見てきた口の中とはまったく違っていた。

初めて見た白血病患者さんの口腔内

「私たちは歯茎の色や粘膜、歯並びなどを瞬時にパッと見るんです。そのときに見させていただいた患者さん方の口の中は、口を開けていただくのも気の毒なくらいに口唇や粘膜が腫れていたり、乾燥していたり、傷ができていたり、思っていた以上でした。歯科チームが加わるようになって1年以上が経っていましたから、以前にくらべればよくなっていたそうですが、それでも、健康な方のお口の中とはまるっきり違っていました」

ただ、「大変な状態だ」ということはわかっても、「何が起きているのか」「どうケアをすればいいのか」、当時の杉浦さんにはわからなかったという。

「患者さんのお口の中を見た後、指導担当の先生から、『さっきの患者さんの口の中の白いところは何だと思う?』と聞かれたものの、『プラーク(細菌の塊)ですか?』としか答えられませんでした。悔しいけれど分からなかったんです。口の中の白いものはプラークだとしか___。今思えば、粘膜障害を起こしているか、あるいは、細菌の塊に、身体から出た浸出液などが混ざって粘膜に浮いていたんだと思います。痛みも相当おありだったでしょうから、お口の中を清掃するのがとても難しい状況になっていたのでしょう」。

やる気を高めるフォロー

やる気を高めるフォロー


移植や手術、放射線治療や化学療法に入る前に口の中をできるだけ清潔にしておき、粘膜も含めてよい状態に保つこと。そして、治療によって予測されるトラブルをできるだけ防ぐようなケア方法を身につけていただく。感染させないよう支援してゆくことがチームの役割だ。

歯科チームがかかわるようになって10年が経ち、杉浦さんが最初に見たような"大変な状態"の患者さんはほとんどいなくなった。

「口腔内の環境(欠けた歯や壊れたかぶせ物がないなど)が同じであれば、口の中に細菌が100匹いたとして、90匹まで減らせた人と、50匹まで減らせた人、30匹まで減らせた人を比べると、30匹まで減らしてから治療に入った人の方が、やっぱり粘膜のトラブルは少ないんです。治療開始の早い段階で、その方に合ったブラシ、操作方法を一緒に見つけながら、粘膜を傷つけずに細菌だけを上手に取るようなケアの仕方を患者さん自身に学んでいただいています。治療が始まって、一番抵抗力が下がるときに、上手にセルフケアできるよう提案していくのが歯科衛生士の仕事です」

やる気を高めるフォロー

粘膜を傷つけずに細菌だけを取るというのは、つまり、あまり力を入れすぎず、歯ブラシのしなりを利用して、歯茎のきわについている細菌の塊を毛先で掃除するということ。

"ゴシゴシ磨き"が好きという人には、力を入れないということが難しい。磨き方を教えた翌日に歯ブラシを見てみると、すっかり毛先が曲がり広がっている、ということも。

「患者さんのやり方をすべて否定することはしませんが、『今、適切かどうかというと、適切ではないと思う。その理由は・・・』を伝えています。治療中、ゴシゴシと磨いて歯茎を傷つけてしまい、もしもそこに細菌がまだ残っていたら、傷口から感染するかもしれません。がんの治療中というのは、個人差はありますが、それほど抵抗力が下がってしまう時期があるのです」

患者さんのなかには、実際に痛みや傷ができてからでなければ口腔ケアの重要性をわかってくれない人も稀にいる。

「看護師さんたちも、患者さんへのモチベーションを上げるよう一緒に協力して頑張ってくださるので、とても口腔衛生指導がやりやすい環境ですが、それでも『なぜ今、歯が関係するのか?』という反応を患者さんがされることも時にあります。『今までむし歯がなかったので、大丈夫』と自信をもっていらっしゃる患者さんもいますね。でも、がん治療中はというのは未知の世界なので、『いつも以上に口腔内を清潔にしておくことが大切なんですよ』ということをわかっていただけるよう、説明の仕方、コミュニケーションの取り方を工夫するようにこころがけています」。

普段からの口腔ケアを

普段からの口腔ケアを


杉浦さんが普段、患者さんと接するときやセルフケアの方法を説明するときに心がけているのが、「相手のできていないこと、苦手なことを見つけて触れることはしないようにする。一方で、できていること、方向転換できそうなところを見つけ出して評価する」こと。

歯科医院に行って、「ほら、この部分がちゃんと磨けていませんよ」と指摘されたことはないだろうか?
「それではやる気がしなくなるでしょう。私だったら、反感をもつかもしれない」と杉浦さんは笑う。

「私は、まずきれいに磨いてさしあげて、気持ち良さを実感してもらうようにしています。そして、患者さん自身に磨いてもらって、『ここ、きれいに磨けていますね』といいところを評価し、達成感を味わってもらう。そうすることで少しでも前向きに取り組んでいただけると思うのです」

こうしたやり方は、杉浦さんが歯科衛生士になって初めて務めた歯科医院での経験が大きい。

「患者さんが元気になって帰る歯科医院だったんです。先生の技術だけではなく、先生のお人柄や話術もあったのだろうと思います。記憶にある限り、先生は、『ほら、こんなに細菌がついているよ』なんて言いませんでした。その人なりにがんばって磨いてきているのですから、患者さんのやる気を削ぐような言葉は絶対にかけない先生でしたね。そのせいか、うつむき加減でいらっしゃった患者さんが、会計の時には元気になっているんです。それが不思議で、大学の通信教育で1ヵ月の夏季スクーリングを利用したりして、10年間心理学を学んだこともあります。
働き始めて2年目の頃からですから、今となっては『先輩を差し置いて、よくお休みを下さいと言えたな』と思うんですが(笑)」

普段からの口腔ケアを

新人時代に開業医の先生に学んだこと、心理学を学んできたことは、今の杉浦さんの「患者さんに寄り添って、患者さんのモチベーションが上がるように励まし、フォローする」というスタイルにつながっている。

最後に杉浦さんは、「口の中はちょっとした身体の変化、環境の変化でトラブルが起きやすいところ。何かあったときにすぐに相談ができる"かかりつけの歯医者さん"を普段からもっておいてほしい」とメッセージを投げかける。

「今、歯科医院が増えているので、どこに行こうか逆に迷うかもしれませんが、自分に合った先生がきっといると思います。あるいは、お気に入りの歯科衛生士をみつけるのもいいかもしれません。今まで患者さんをみていて、やはり普段から定期的に歯科医院でチェックやケアを受けている方のほうが、がん治療が始まったあともトラブルが少ないと感じています」

口の中の状態と、がん治療__。一見、関係がなさそうに見えるかもしれないが、粘膜保護や口腔乾燥対策、口の中をきれいに保つことの重要性、さらには免疫力が著しく低下した時の口腔感染管理の重要性が、今、見直されている。そして、杉浦さんのように、それをサポートしてくれるプロフェッショナルも徐々に増えてきている。

(2013年6月)